子供たちが置かれている状況の危うさ

投稿日 : 2012年11月15日, カテゴリー : 塾長のBLOG

子供から大人へ成長していく十代はその後の人生にとって特別な意味を持っています。つまり、自分の生き方を確立する中で、自分の弱さや醜さに直面し、また身近な家族や友のずるさや矛盾に戸惑い、不信や不安に駆りたてられることがよくあります。しかし、それは誰しも乗り越えなければならない試練であり、その試練を通して、他者に対する思いやりややさしさが芽生え、また他者や自分を許す、寛容の気持ちが育って行くのです。

日本ではこの時期を思春期と呼び、人間の成長にとって最も大切な時間として位置付けてきました。昭和の時代に思春期を迎えた人たちの多くは読書を通して思索したり、友達と真剣に議論したりしてその葛藤を乗り越えてきました。また形は違えども、学生運動や暴走族や非行行動を通して、自己や他者の心とふれあい、結果的に生きるための大切なことを学んできました。

ところが、最近の子供たちの置かれている状況は少し違っています。もちろんこれは私が見聞きした中での私見ですので間違っている部分もあると思います。悪しからず。

時代が変わっても、子供たちが思春期にいることは変わりません。だから、様々なことに悩んでいることは確かです。問題はその悩みを昇華して、先程書いた、他者への思いやりや優しさの域まで持って行くには、その悩みというストレスを乗り越えなければなりません。その悩みを無視したり、解消したりする方向へ行っては何にも解決できません。ところが、大人のまねをして、ストレス解消に走る子供たちがなんと多いことか。それでは乗り越えるためにはどうするかと言いますと、自分や他者と真剣な対話をすることです。しかし、ここに大きな問題があります。実は最近の子供たちには「他者」と呼ぶ相手がいないのです。他者と呼ぶ相手になることが出来るのは、友達や仲間や家族や書物だったりしますが、そうした「他者」が今の子供たちにはいないのです。外形的にはいますが、その中では対話がないのです。薄っぺらい会話や当たり障りのない議論はありますが、その目的は今ある悩みを乗り越えるためのものではなく、その仲間と称しているグループの一員であることを確認しあう儀式にすぎません。しかもその儀式は仲間はずれにされないための真剣な儀式なので、手抜きができず、たとえば、メールが来たら、時間を置かずに返信しなければならず、子供たちは総じて疲れています。

自分の心の中にある根源的な悩みと向き合うこともなく、やり過ごしてしまったつけはどこかで出てくるに違いありません。いじめ、家庭内暴力、ニート、若年性うつ病、凶悪犯罪の増加など、今の日本で問題になっている現象の多くは思春期の不完全燃焼に起因していると考えています。

子供たちの話をただ黙って聞くとともに、自分たちの若い頃の生き方を真剣に伝えて行くことが我々大人の大切な役割であろうと思います。

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